素朴な疑問

お経を唱えていたら、どう考えてもこれは亡くなった人に捧げるものではなく、生きてる人間が自分自身に向かって読むべきものではないのか?という疑問がふと湧いてきた🤔(供養回向などは別として)

 

 

と言っても私は仏教に詳しいわけでは全くなく、お経も大部分が意味のわからないまま唱えてるのだけど、誰でも分かるような箇所は分かるので、その部分だけを見ても、いやいや、死んでからじゃなくて今でしょ、みたいな😅😇

 

 

それで何故お葬式や法事の時にお経を唱えるのか、ネットでいくつか調べてみると、

 

「周りで聞いている人達のために唱えている」

 

「その場でいる者達で、人生において本当に大切なことを思い出そう、学び直そうとする態度の表明」

 

「亡くなって輪廻したばかりの人の魂に栄養を届けるため→供養」

 

 

という感じの答えが出てきた🧐

合ってるのかわからないけど、とりあえず、供養だけではなく、その場にいる生きてる人間の為でもあるようだ😅

 

 

 

でも改めて思うのは、私としては、死んでからお坊さんに来てもらってたら遅いんじゃないのか、と。

 

 

今の日本だと、お坊さんもお経も御供物でしかなくなっているように感じるんだけど、それだとやっぱり残念過ぎる😢

 

 

生きてる内にお経を読んだりお坊さんとお話しして、生死の問題についての疑問とか、どう生きればいいのかとか、そういうのを学ばないといけないんじゃないのか😥

 

 

だって、修證義を見ても、

 

今生の未だ過ぎざる際だに急ぎて發願すべし

 

即心是佛というは誰というぞと審細に参究すべし

 

って書いてあるやんか😂

 

 

 

でもお経って、訳が人それぞれで、般若心経なんか正直まともに解説されてる本ってあるのかなあ、と思うくらいだから、お経を学ぶにしても、どの本から学ぶのか、誰から学ぶのか、というのは非常に大事になってくる。

 

 

私も、自分が唱えてるお経の意味はやはり知っておきたいから、今生の未だ過ぎざる際だに、急ぎて学ぶ機会を得たいものだ😂

 

 

 

 

でも普回向は、いつ唱えても染みるなあ😭

 

まさにこれに始まりこれに終わる、みたいな。

 

 

しかも「十方三世一切佛」って、ホンマにそのまんまというか、まさしくその通りで、そうとしか言われへんよねえ😂🙏

 

 

 

 

 

 

 

たった1人、違う奴がいる

私は4年半前に鎌倉の一法庵のリトリートに飛び込んで瞑想を始めたんだけど、それからしばらくサンガの一員として接心などに参加していた時に、哲学者の池田晶子さんや永井均さんの著書を紹介され、この私の存在とは、と考えるようになった🤔

 

 

それまで私は世間の人と同じように、私はこの世界で生きている中のちっぽけな1人で、脳が私をやっていて、脳と体が駄目になれば死んでゆく、と思っていた。

人生とは、そういうもんなんだ、って。

 

 

 

でも池田晶子さんの「人生のほんとう」を読んだ時に、天と地がひっくり返るくらいの衝撃を受けた😳😳😳


 

実際、池田晶子さんの著書を読んで発狂した人が何人もいるそうで、でもそれはその人達がちゃんと考えて正しく読んだからだと私は思うけど、発狂してしまったのは、きっと真実を受け入れられなかったからなのだろうな😓

 

 

でも池田晶子さんの著書を読んで、これまでの人生が全部ひっくり返るくらいの衝撃が無いということは、何を言ってるのかピンときてないか、フィクションのように読んでいるか、だろう。

残念ながら、殆どの人は「自分で考える」ということをしないので、こっちに当てはまるのだと思う😢

 

 

私の場合は、「世の中で伝えられてることが全部偽りで、こっちが本当なんだ」と確信したから、相当に衝撃的ではあったけれど、逆にめちゃくちゃ嬉しかったし、真実を知り安堵した、という感じだった。

 

 

永井均さんの「哲おじさんと学くん」は、この「自分のあり方の謎」について書かれていて、ただ私のように頭のよろしくない人間にはだいぶ難しく、この本も当時だいぶゆっくり時間をかけて読んだけど、とりあえず、

 

 

あり方が逆になっている奴が一人だけいる

 

 

というのが、私にとっては一番のポイントで、実際、どう考えても、どう考えてもおかしいのである😳

 

 

なぜか私は私をやっていて、私は人の顔は見れるのに自分の顔は鏡を見ないと見えなくて、自分の痛みは自分しか感じることが出来なくて、見えている人や物や世界は、全て「私 対 世界」の構図になっている。

 


みんなこれが当たり前だと思ってるけど、気づいてみると、どう考えてもおかしい。

なんで、私だけ反対なんやろ、って🙃😳💦💦



それは「えっ?」じゃなくて、「えっ」というか、「あっ」というか、そういう感じ😳



これは本当に、考えれば考えるほどわからなくて、というか絶対わからへんねんけど、改めて考えると、「いやいや、こいつ誰やねん」って😳😱💦💦

 

 

 

なんかわからんけど、私をやってるこいつは誰だ。

というか、こいつは誰だと言ってる私とは何か。

 

もう、おかし過ぎて、笑うしかあれへんやんか🤣

 

 

 

 

でも私は、この自分の存在について考えるようになってから、随分生きるのが楽になった。

だって、世界に一つだけのちっぽけな私は、実は世界なのだと気づいたのだから🌸

 


でも発狂する人達の気持ちもわからなくはない。



だって、私の見えてる世界は一つしかないのだから、ある意味「私しかいない」とも言えるので、物凄い孤独なところに生きている、ということでもある🕴


各々が皆、各々の世界の中で生きているということであり、その人しか、その人自身を感じることも生きることも出来ないのだ。



でもまあ、みんな、まさか自分が本当は「人生という名の映画を観ている」だなんて、気づきたくないんやろうなあ😱😅




なぜか、私はたまたまここで「西田晴美さん」という人の人生を与えられていて、それは考えても考えてもさっぱり訳がわからなくて謎でしかないのだけれど、なぜか私はこいつなのだから、私がこいつを生きてやらんことには、誰がこいつを生きるねん、と。

 


だから、腹くくってこいつを生きようぜ、と、そういうことだ😌


なので私は、このはるみさんという人の人生を、精一杯生きてやりたいと思う✨

 

 

 


これまで私もずっと思ってきたけど、世の多くの悩める人達は、人生の中で、


 

「私が生きてる意味って何?」


 

と思うことがあるだろう。

自分の存在価値を、何かで確かめたくなったりするだろう。

 

 

今の私は、こう思っている。

 


「意味なんかいらんやん。存在価値とか必要ないやん。今ここに存在してるということ自体、そんなん全部超えてるんやから。」

 

 

 

 

 

 




 

深く観る

一昨日と昨日は久しぶりに外出したんだけど、改めて「マスクを着けているのが当たり前」の世界になっているなあ、と思った😷

 

でも怖いなと感じたのが、無意識に「あ、あの人マスクしてない」とか「鼻を出してマスクしてるな」とかついチェックをしてしまっていたことだ💦

 

 

私は緊急事態宣言が出る数日前にやっとマスクを着け始めた人なんだけど、いざ自分が着け出すと、着けていない人が気になり出すのだから、恐ろしいものだ😱

 

でもこんな風にすぐに世の中に流されて染まってるようではいかんので、気をつけよう😓

 

 

 

この間、情報の選択というブログを書いたけど、最近は日経アプリだけでなくNHKのニュースアプリも見ていて、そしたらテレビに出演していた女性がネットで誹謗中傷され自ら命を絶ったというニュースを知ったんだけど、とても可愛らしい女の子だったから、とても心が痛かった😢

 

 

ただ結果だけを見ると、彼女は被害者で、書き込みをして追い詰めた人達が加害者なのだろうけど、でもどちらも感覚が麻痺して病んでいるわけだから、みんながこの社会の被害者のようにも感じる。

それに、心のケアがまず必要なのは、そのような書き込みをしている人達かもしれないし。

 


でも恋愛ってすごくパーソナルなものなのに、恋愛のリアリティ番組というのがあって、そういうものを求めて消費すること自体も何だか怖いなあ、と個人的に思ってしまうけど😓

 

 


世間では、「常識と非常識」というアタマで作った観念で、全部良いか悪いかにして判断して、何も知らないのに平気で人を批判したり責めてしまう傾向があるけど、最近はそれが過敏になり過ぎてる感じがする😥

 

 

誰でも失敗や間違いはするはずなのに、ちょっと間違えただけでボロカスに叩かれて、しかもそれが一瞬で世界に発信されてしまうというとんでもなく恐ろしい世界に突入しているから、絶対失敗出来へんやん、みたいな😭

 


でも立場なんて、たまたま今自分がこの立場なだけであって、いつひっくり返るかもわからないし、本当に傷つくのは、傷つけられた人よりも実は傷つけた人の方なのだし🩸🗡

 

 

 

今回の事件が気になったのは、全て自分を映す鏡だったからなのだろうな。

 

 

自分を責めて追い詰めて亡くなった女性も、

女性に罵詈雑言を浴びせた人達も、

そういうテレビやネット社会の中で生きてそれを消費している世間も、

可哀想だけど自分とは関係ない、と眺めている人達も、

 

 

みんな私と関係ないわけがなくて、むしろ全て自分の投影であり、私自身でもあるのだ😥

 

 

 

 

全ては、無明から始まっている。

でも自分が無明にある限り、自分が無明であることにも気づくことが出来ない。

 

 

 

表面に映る世界の中だけに囚われて生きることなく、深く観ることをしっかり実践して、智慧を養っていきたいな、と今回改めて思った🙏

 

 

 

 

 

スマホのスタンドを買ってみたけど、ブログ書く時も首が楽でいい感じだ✨

 

 

でも老眼がだいぶ進んでるから、距離感が微妙に難しいねんけど😭

 

 

 

 

 

 

 

 

これからの世界

今月、外出は駅周辺に何度か用事に行っただけで、ここ1週間は全く外出していない🏡

 


緊急事態宣言が早く解除されたけど、自分の奥底から「お願いだから、今月は自分に集中させてくれ‼」と悲痛な叫び声が何度も聞こえてたので、スタジオや仕事もそろそろ始めることも出来たのだけど、今月末まで休むことは決めていたし、予定を入れることは控えた😌

 

 

満月の前は作務に没頭していたけど、今週は新月に向かっていく影響か、数日間は坐禅に没頭してた🌝🌚


今日は新月で、これから少しずつ動きを入れていこうかとは思うけど、スタジオは来月から再開するけれど外の仕事を今後どうするかは、まだ思案中だ😓

というのも、今はまだ様子を見ないと今後状況がどう変わっていくかもわからないし😥

 

 

 

でも今回のコロナで世の中が激変したけど、これも起こるべくして起こってるというか、走り過ぎてみんなおかしくなってたから、強制的に停止させられたことは良かったように思う✋

 


というのも、世間的・表面的には自由でも、個人とその心は自由ではなかったから、今回世間的・表面的に縛られることで、逆に個人や内面が自由になり、解放されていく気がしてる👼



私の周りでも、忙し過ぎる日々を送っていて、こっちが見ていて心配になる人も多かったし、実際今回のコロナの影響で、自殺する人はだいぶ減ったみたいだし🩸

 

 

とりあえず私みたいに、人混みや大人数で集まるのが苦手で、付き合いが悪く、旅行やレジャーにも全く興味のない人間にとっては、これから何だかとっても生きやすくなる予感😚🌹✨

つーか、オンライン飲み会とかする意味が全くわからへんねんけど🍻😓

 


それに、これまでは仕事で休憩の時にカフェに入っても、みんな気が狂ってるのかと思うくらい周りがうるさ過ぎてホントにウンザリしてたから、これからは周りの人との距離が空くことも大歓迎だ✨☕

 

 


うちのスタジオも、とりあえずアシュタンガのクラスを定員4名にしてやる予定だけど、スタジオを立ち上げて更に女性専用にしてからは4人以上来たことないし、それに私のスキルでは、それ以上来られても見れないから丁度良いかな、と😅

 

大勢の人を集客していた所はこれから大変だろうけど、きっとこれからは大きな箱は必要無くなってくるだろうから、私みたいに一人一人丁寧にやっていきたい人間にとっては、やりやすい時代になっていきそうだ🤗

 


ホントは外の仕事も近場を希望してるんだけど、時給が安いと食べていけないし、車も無い&乗れないから難しいなあ😢

 


車といえばこの間、「自動運転」のネット記事を見て思わず食いついてしまったけど、早く自動運転の世界が実現してくれないかしらねえ🚗笑(←だいぶ運転するのが嫌みたいだな、私は😅)

 

 

 

今月に入ってから毎日お風呂に垂らしてる、ミスティックブレンドオイルのカムトゥミー😃

 


これまでこのオイルの香りを欲することはなかったんだけど、ここ最近は逆にこれじゃないとダメ、みたいな💦

 

 

このオイルは基本、異性を引き寄せるエネルギーのあるものなんだけど、家に独りでこもって坐禅して、ニコニコしながらお経唱えてる40代バツイチ女子にそんなご縁があるはずもなく、それに何となく私的には、もっと大きな枠でのCome To Me のような気がしてる👼

 

 

 

世界は急激に変化しているけど、beingの中にdoingがあるのだから、マインドフルに毎日を過ごしてbeingの質を高めて、本当に必要なdoingに繋げていきたいな🌱

 

 

 

 

 

 

 

死とは何か

2年ほど前だろうか、以前の家で住んでいた時のことだ。

 

仕事から帰ってきて学園前の駅から家まで歩き、途中にある踏切の前で電車が通り過ぎるのを待っていたら、私の足元の右側で鳥が死んでいるのを見つけた。

 

 

私は驚いて、こんな時はどうしたらいいのだろうかと思い携帯で調べてみると、野鳥の死骸には触れないようにと書かれていて、でも私はこの鳥を人目につかないよう、そばの草むらに葬ってあげたかった。

 


それに家は賃貸だし庭もないから埋めることも出来ないし、迷いながらもとりあえず踏切の向こうの草むらまで移動させようと思い手に取ってみると、まだ亡くなってあまり時間が経ってなかったのか、そこまで硬直した感じもなく、毛はフワフワと柔らかかった。



 

 

この子は亡くなっているけれど、とても美しかった。何故こんなにも、滑らかで尊くて、こんなにも美しく、愛おしいのだろう。

 


 

私の手の中にいるこの子は、決して小さな鳥の亡骸などではなかった。



紛れもなく大きな空であり、世界そのものだった。

 


私は、その大空であり世界であるこの子に触れ、その圧倒的なエネルギーというのか、世界そのものに触れた感じがして、ただ呆然とするしかなかった。

 

 

 

その後に人目につかないように草むらに葬って、家に帰ってからは悲しくてしばらく泣いてたんだけど、それから私はこの子を「チュンちゃん」と名づけて、いつもそばを通る時はチュンちゃんに声をかけた。

 

 


 

私は、それから死というものがわからなくなった。

 


 

というのも、死んだはずのチュンちゃんと私は出会い、私はとてつもなく大きなエネルギーをもらった。



というか、もしあの時チュンちゃんが元気で飛んでいたら、私はチュンちゃんと出会うことはなかっただろう。



そしてあの時からずっと、チュンちゃんは私の中にいて、変わることなく自由に大空を飛んでいる。

 

 

 

そういえば祖父が亡くなった時も、棺に入った祖父の顔を見ながら、私はこの人を、世界で一番美しいと思った。

 

こんなにも美しい人を、私は初めて見た。

私はこんな美しい人の孫だったのか、と。



本当に、ずっと眺めていたくなるくらい美しかった。

命を全うしたら、こんなにも美しいものなのかなあ、って思った。

 

 

 

 

死とは、何だろう。

 

 

死ぬことを経験していないからわからないけど、というか、どこからが生で、どこからが死、なのだろうか。

 

 

それに、私は亡くなった内山老師から真実を学んでいるし、おじいちゃんも変わらず私と共にいる。

エリオット・スミスの曲だって、今も変わらず聴くことが出来る。

 

 

 

生きて、死んで、出会って、別れて、始まって、終わって。

 

 

でもそれは本当にそうなのか。

 


表面的にそう見えてるだけで、本当は全部繋がっているんじゃないのか。

 

 

大体、私自身が何者なのかがそもそもわからないから、そこからして途方に暮れるしかないんだけど、存在と生だけでなく、死もやはり、私にとっては謎なのだ。

 

 

 

 

 

「ティク・ナット・ハンの般若心経」より

 

 

あの秋の日、私は葉っぱに尋ねました。秋になって他の葉たちが落ちていくのは怖くないか、と。するとその葉は私に答えました。

 

 

「いいえ。春と夏のあいだずっと私はとても活き活きしていました。一生懸命に働いて、木に栄養を与えるように助けました。私の大部分は木の中にあるのです。どうか、私はこの形だけだと思わないでください。このような葉としての形は、私のほんの小さな一部分でしかありません。私はこの木ぜんたいです。この木の中にすでにいることを私はわかっています。やがて土に戻っても、これまでのように木を養い続けることでしょう。だから心配はしていません。枝を離れてもひらひらと地面を舞うときは、木に手を振り、すぐにまた会いましょう、と言うつもりです」

 

 

突然、私は般若心経にある智慧とひじょうによく似た洞察があることを見てとりました。命を「観」なくてはいけないのです。葉っぱの命ではなく、葉の中にある命、木の中にある命と言うべきです。私の命は大いなる命そのものであり、その命は私の中にも木の中にも見ることができます。やがて、葉は枝から離れると、嬉しそうにひらひらと舞いながら、地面に降りました。その葉っぱは散りながら、木の中にいる自分を見ていたのです。葉っぱはとても幸せでした。私は頭を下げました。怖れることのないこの葉から学ぶことはたくさんあると知ったからです。何ひとつとして生まれることはできず、死ぬこともできないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

この体

 

あなた自身の体を深く観ていけば、その中にはあなたの両親と祖父母、すべての祖先、そして地球の生命の歴史がすべて入っているのがわかるでしょう。

 


この体は、ふだんあなたが体だとは思っていないような、体以外のすべてのものから作られた複合体です。

そこには太陽と月と星、時間と空間も見てとれるでしょう。

事実、この体を作り上げるために、宇宙全体がここに集まっているのです。

 

 

その体に欠けているものはただひとつ、分離した実体という存在です。

 

もしも太陽の光を太陽に、雨を雲に、鉱物を大地に返すとしたら、私たちのこの体は存在できるのでしょうか?

 

すべての物質現象は、その中に宇宙全体を抱え込んでいます。

どんなものでも、それだけで存在することはできないのです。

 

この体はすべての存在に依存していることを見通せれば、独立して存在する実体などないことがわかるでしょう。

 


 


 

数百年もの歳月を経て 代々伝わってきたこの体

一度も死んだことのない体

 

 

この体を大切にあつかおう 私ひとりのものではない

私につながる先祖すべてのもの 軽んじてはならない

 

 

心はこの体の中にある

心は体を生じさせ、体は心を生じさせる

 

 

この体の中に 宇宙のあらゆる生命の奇跡がある

不生不死界、浄土、神の国もある

ないがしろにはできない

宇宙の不思議がすべてある

 

 

この体は宇宙に咲く美しい一輪の花

大事に世話しよう

宇宙の不思議と奇跡を

すべて解き明かしていこう

 

 

この体はたくさんの形となり

未来に続いてゆく

子孫がいるかどうかではない

後に続く生命のために

この体を美しく継続していこう

 

 

 

「ティク・ナット・ハンの般若心経」より

 

 

 

 

 

 

 

風の馬

私が応援しているルンタプロジェクトで久しぶりにお買い物をさせてもらった😃

 

 

今回頼んだのは、オリジナルTシャツとランチョンマット7枚とタルチョの小と中サイズ。

https://www.lung-ta.com/online-store

 

 

Tシャツはオーガニックコットンの生地にルンタプロジェクトのロゴがプリントされていて、肌触りが良いからとても気持ちがいい😊

2000円はめちゃ安いと思う😆

 

 

 

早速着てみました😆笑

 

あら、はるみさん良く似合ってるじゃないの✨

でも後ろに服が脱ぎ散らかしてあるけど😅💦

 

 

 

中サイズのタルチョはプラクティス部屋のベランダに取り付けて、古くてボロボロになったタルチョは外して補助として再利用😃

 

 

タルチョはチベットの祈祷旗で、五色は天・風・火・水・地を表し、風に乗って人々の願いを天に届けるという風の馬(ルンタ)が印刷されている🐎



 

寝室のベランダには小サイズを取り付けた😃

 

でもタルチョを付けると、なんか感無量というか、やたら込み上げてくるものがあるねんなあ😭

テンションもめちゃ上がるし、今回新しく頼んで良かったな🤗

 

 

 

因みにジェイミーが巻いてるのはルンタプロジェクトのイラクサのマフラーで、玄関に飾っている版画は、ルンタプロジェクトがクラウドファンディングをしていた時に寄付し、その特典で頂いたもの😃

 

 

 

今は世の中がとても変化している時だけれど、こうやって地道に応援は続けていきたいと思う☺

 

 

風の馬に乗って、思いよ、届け🐎

 

 

 

 

 

 

 

何もしない

ここ数日は、「何もしない」ということを大事にして過ごしている☘

 

 

私達はいつも何かをしていて、何かをすることで「私は生きている」という実感を得ようとしているけど、そうやって何かしていないと落ち着かないというのは本当は問題で、ストレスや緊張感、不安を自分で作ってしまっているのだ😓

 

 

しかも何か一つのことに集中しているならともかく、テレビ見ながらご飯を食べたり、携帯見ながら話をしたり、お菓子食べながら本を読んだり、そうやって意識が常に色んな方向へ向いてると、ますます今ここにいる自分という存在から離れていってしまう😥

 

 

瞑想も「doing」ではなく「being」であることが重要で、「する」のではなく「今起こっていることに気づく・今起こっていることを知っている」ということが大切なのだけど、私もわかってはいながらもついdoingでやってしまうので、最近は坐禅も、出来るだけ「何もしない」ということを心がけて坐っている😌

 

 

 

ここ数日は本も読まず音楽も聴かず、それに出来る限り静かな環境で過ごしたかったから、携帯もLINEとメールのサウンドの通知をオフにして、可能な限り余計な雑音を消したんだけど、とてもゆったりとして心地が良い✨

 

 

まだまだ私は外に意識が向きがちだから、こうやって物理的に独りで静かに過ごす時間が必要なんだけど、今回の自粛期間が終わっても、こういう時間を定期的に作っていけたらなあと思う🏡

 

 

 

 

レモンの花が沢山咲いてきたけど、すぐに花びらが落ちちゃうからお掃除が大変😂

 

 

でもジャスミンやネロリのような甘い香りがして、自分の中の女性性を呼び起こさせてくれる感じで癒される✨👩

 

 

 

家の用事は少しずつやっていて、もうやりたいことは全部終わったんだけど、先週レースのカーテンを全部洗った時、一階の洋室から見える庭が素敵だったので撮ってみた🤗

 

 

 

 

家には誰も来ないけど、チベット絨毯のチベたんは相変わらず玄関で威風堂々としていらっしゃる😊

ジェイミーも相変わらず足浮いてるし💀🤣

 

 

私は今は、「人間・動物・植物・物質」の境界線が自分の中であんまりなくて、というか私にとっては全部同じだから、家で独りでいても「私は独りだ」という感覚があまりないんだけど、我が家でもみんなそれぞれが、自分の場所で自分を全うしている。

 

 

 

「何もしない」ようにすると、みんなと一緒にこうして過ごせていることがいつも以上に有難くて、宝石のようにキラキラとして感じられるなあ☺💎✨

 

 

 

 

 

 

 

自分を知る

私はこれまで生きてきて、ずっと自分のことが嫌いで仕方なかった😣

 

なんで私はこんなに醜いんやろう、運動神経がどうしようもなく悪いのに頭も良くないし、色は黒いし太りやすいし胸は小さいし、特に人より際立って出来る何かもないし、若くで結婚したけど子供産む勇気も親になる自信もないし👶😥

 

 

コンプレックスの塊だった私はこうやって自分にダメ出しばっかりして生きてきて、だからずっとダイエットしてたし、少しでもコンプレックスを補うためにエステや化粧品、インテリアや雑貨、服やカバンと靴なんかにも相当お金を使ってきた👚👜

 


美容部員になってからはやり甲斐があったけど、頭痛と不眠のために頭痛薬と安定剤は手離せず、更にたまたま出会った年下の男性と不倫したら本気になってしまい、でも遠距離だったからなかなか彼には会えなくて、それでその辛さを違う人で埋めようとしたり😥


仕事では過労に加えて、自分に向いていないマネジメント業務を上手くこなすことが出来ず、会社の上司と仲間達からひたすら責められまくっていたのでプチ鬱&人間不信になり、もうホンマに無茶苦茶やった😱💦

 

 

30代の半ばで仕事やめて、ヨガを始めてからかな、自分と向き合うということを何となく知って、その後ヴィーガンという生き方を知り、殺生をしたくないという思いの元にヴィーガンになったけど、本当のところは無意識に「清い私でいたい」「自分ではない何かになりたかった」だけで、でも何でもとことんやってしまう私は、気づけば栄養失調になっていた😢

 

 

瞑想を始めて、そこでやっと、これまでずっと私は自分の不安を何かで満たして誤魔化そうとしていたこと、自分を責め続けて「この醜い私」をどうにかしようと鏡を磨きまくっていたことに気づき、それから少しずつではあるけれど、自分のことを愛せるようになり、ありのままでいいんだ、と思えるようになってきた🌼

 

 

 

 

瞑想は、チベット語で「ゴム」というらしいのだけど、それは「親しむ」とか「よく知る」という意味だそうで、一般的に瞑想は「スッキリする」「無になる」「悟りの境地を得る」と誤解されがちだけど、本当は自分の本来の心に親しむこと、自分自身のことをよく知っていく、ということなのだそうだ。



因みにヨガも瞑想だから、私はヨガも瞑想も、どちらも自分をよく知っていくためのものである、と今は理解していて、勿論それは一度に出来るわけではなく、徐々に進んでいく過程であり、少しずつ本当の自分と繋がっていくためのものだ。


 

 

私がこれまで苦しんできたのは、全て「外から自分がどう見えるか」ということであり、もし自分がそのままの私を受け入れて愛していたら、おそらく無かった苦しみだろう。

 

人から何を言われようが、自分が自分を信じて認めていたら、例え世界を敵に回しても大丈夫なのだし🌍

 

 

 

気づけば「他との兼ね合い」としての自分を生きてきて、それが自分だと思ってきたけど、本当は「西田さん」でも「晴美さん」でもない私が、本当の私なのだろう。

 

名前も肩書きも名誉も何も必要としない、私という何とも言えない、この存在が在る。

 

 

この「生きている」という感触というか、そこに触れるととても穏やかで、そして私の目に映っているものも全て一緒に存在している、という安らぎ。

 

 

これまで私は外に何かを求めてきて、ずっと自分を知ろうとして来なかったけど、これからの人生は「自分を知る」ことを大切にして、変化を楽しみながら、一歩一歩進んでいきたいな🌿

 

 

 

 

 

テレビはないけど音楽は昔から好きでよく聴く私は、最近ジャスティン・ビーバーとエド・シーランを聴いている😃

 

これまでこんなヒットチャートに上がるメジャーな人達の音楽はあまり聴かなかったけど、自粛中のお家時間を過ごすには最適なBGMだ🎵

 

特にジャスティンのNEWアルバムを聴いてると、めちゃくちゃ心地良いから、いい感じで力が抜けてだいぶ癒される✨

 

 

ジャスティン・ビーバーもエド・シーランも「傷ついてきたセレブリティ」だからかな💔

痛みを経験して、それを乗り越えようとするアーティストの繊細で豊かな表現力とエネルギーには脱帽だ🤗

 

 

私は、今はこうしてブログを書いて自分を表現しているけど、何故か今ここに生かされているという不思議極まりない人生は、これから一体どうなっていくのだろうな😌

 

 

 

 

 

 

 

 

自粛生活と八支則

自粛生活が始まって1ヶ月ちょい、今月に入ってからはひたすら家の掃除をしていて、外回りの柵やベランダの掃除が終わってホッとしつつも、今日は窓の桟や床の拭き掃除に没頭していた🧽

 

あとはエアコンの掃除、レースカーテンの洗濯、家の外回りの拭き掃除をやったら大体OKかなあ🧤

 

しかし丁度この時期でホントにありがたい💦

これが真夏か冬やったらここまで出来ないから、だから余計に今やっとこう、みたいな😅

 

 

普段手が回らない所まで掃除が出来ると、やっぱり空気が澄む感じがするし、それに家やそれぞれの物に感謝と敬意を持って心を込めて掃除をしていると、何より自分がスッキリして、掃除が進むほどに心地良さが増してくる✨

 

 

 

でも今日、こういう環境を清潔にすることってヨガだと何になるんやっけ?と思って八支則を見てみたら、ニヤマのシャウチャにあたるようだ🤔📖


※八支則…パタンジャリの聖典「ヨーガ・スートラ」に書かれている、8つの進むべき段階あるいは守るべき規則。

※アシュタンガ=8本の枝

https://fe-nuyoga.com/about/ 

↑沖縄のツトム先生のスタジオのHPより引用

 

 

私は頭があまりよろしくなく、なので哲学や難しい言葉などを学んでもさっぱり覚えられないから、なかなか八支則も覚えられないんだけど、こうして自分の生活や行動に当てはめていけば馴染めそうだ😊

 

 

そして八支則の、特に最初の2本の枝の「ヤマ(禁戒)」の5つと「ニヤマ(勧戒)」の5つを改めて見てみると、今の自粛生活でちゃんと実践出来ていることがわかり嬉しかった✨

 

 

自も他も傷つけることなく思いやりを持ち(アヒムサ)

嘘をつかず正直に(サティヤ)

誰かを羨ましがったり妬んだりせず(アステーヤ)

意識をかき乱すような物から自分を避け(ブラフマチャリヤ)

サトヴィックな食べ物を必要なだけ頂き(アパリグラハ)

 

場や自分の心と体を清浄にし(シャウチャ)

足るを知っていつも幸福であり(サントーシャ)

ヨーガを実践し(タパス)

霊的書物から学び(スワディヤーヤ)

行為の結果は神に捧げる(イシュワラプラニダーナ)

 

 

 

今回の自粛期間は、自分の生活を見直す絶好のチャンスであり、正直私は自分に集中出来ることがめちゃくちゃ嬉しかったんだけど、私の場合はまず体を休めて・内山老師から学び・坐禅することを実践し、その後はアサナの実践や環境を清潔にし、期間中は規則正しい生活を出来るだけするようにしてるのだけど、改めて、全部ヨーガの実践なのだよなあと感じた🧘

 

 

この自分と向き合える時間は、私にとっては神様から与えて頂いたギフトであったのだけど、自分を信頼して任せて過ごしたことで、色々な気づきがあり良かったと思う🎁

 

 

明日からはそろそろ外に向けての動きが出てきそうだけど、パタンジャリの八支則を今後しっかりと深めていけるよう、日々を大切にして過ごしていきたい🙏

 

 

 

 

 

キリムのバブーシュがそろそろ暑くなってきたので、楽天で手作りの布草履を注文してみたのだけど、お手頃なのにしっかりしていてなかなかいい感じ✨

 

去年買った竹皮の草履はワンシーズンで潰れちゃったけど、これはしっかりしてるからもう少し持ちそうだな👣

 

 

なんか最近、イエローやオレンジなどのビタミンカラーにやたら惹かれるのは何故だろう🍋🍊💦