死とは何か

2年ほど前だろうか、以前の家で住んでいた時のことだ。

 

仕事から帰ってきて学園前の駅から家まで歩き、途中にある踏切の前で電車が通り過ぎるのを待っていたら、私の足元の右側で鳥が死んでいるのを見つけた。

 

 

私は驚いて、こんな時はどうしたらいいのだろうかと思い携帯で調べてみると、野鳥の死骸には触れないようにと書かれていて、でも私はこの鳥を人目につかないよう、そばの草むらに葬ってあげたかった。

 


それに家は賃貸だし庭もないから埋めることも出来ないし、迷いながらもとりあえず踏切の向こうの草むらまで移動させようと思い手に取ってみると、まだ亡くなってあまり時間が経ってなかったのか、そこまで硬直した感じもなく、毛はフワフワと柔らかかった。



 

 

この子は亡くなっているけれど、とても美しかった。何故こんなにも、滑らかで尊くて、こんなにも美しく、愛おしいのだろう。

 


 

私の手の中にいるこの子は、決して小さな鳥の亡骸などではなかった。



紛れもなく大きな空であり、世界そのものだった。

 


私は、その大空であり世界であるこの子に触れ、その圧倒的なエネルギーというのか、世界そのものに触れた感じがして、ただ呆然とするしかなかった。

 

 

 

その後に人目につかないように草むらに葬って、家に帰ってからは悲しくてしばらく泣いてたんだけど、それから私はこの子を「チュンちゃん」と名づけて、いつもそばを通る時はチュンちゃんに声をかけた。

 

 


 

私は、それから死というものがわからなくなった。

 


 

というのも、死んだはずのチュンちゃんと私は出会い、私はとてつもなく大きなエネルギーをもらった。



というか、もしあの時チュンちゃんが元気で飛んでいたら、私はチュンちゃんと出会うことはなかっただろう。



そしてあの時からずっと、チュンちゃんは私の中にいて、変わることなく自由に大空を飛んでいる。

 

 

 

そういえば祖父が亡くなった時も、棺に入った祖父の顔を見ながら、私はこの人を、世界で一番美しいと思った。

 

こんなにも美しい人を、私は初めて見た。

私はこんな美しい人の孫だったのか、と。



本当に、ずっと眺めていたくなるくらい美しかった。

命を全うしたら、こんなにも美しいものなのかなあ、って思った。

 

 

 

 

死とは、何だろう。

 

 

死ぬことを経験していないからわからないけど、というか、どこからが生で、どこからが死、なのだろうか。

 

 

それに、私は亡くなった内山老師から真実を学んでいるし、おじいちゃんも変わらず私と共にいる。

エリオット・スミスの曲だって、今も変わらず聴くことが出来る。

 

 

 

生きて、死んで、出会って、別れて、始まって、終わって。

 

 

でもそれは本当にそうなのか。

 


表面的にそう見えてるだけで、本当は全部繋がっているんじゃないのか。

 

 

大体、私自身が何者なのかがそもそもわからないから、そこからして途方に暮れるしかないんだけど、存在と生だけでなく、死もやはり、私にとっては謎なのだ。

 

 

 

 

 

「ティク・ナット・ハンの般若心経」より

 

 

あの秋の日、私は葉っぱに尋ねました。秋になって他の葉たちが落ちていくのは怖くないか、と。するとその葉は私に答えました。

 

 

「いいえ。春と夏のあいだずっと私はとても活き活きしていました。一生懸命に働いて、木に栄養を与えるように助けました。私の大部分は木の中にあるのです。どうか、私はこの形だけだと思わないでください。このような葉としての形は、私のほんの小さな一部分でしかありません。私はこの木ぜんたいです。この木の中にすでにいることを私はわかっています。やがて土に戻っても、これまでのように木を養い続けることでしょう。だから心配はしていません。枝を離れてもひらひらと地面を舞うときは、木に手を振り、すぐにまた会いましょう、と言うつもりです」

 

 

突然、私は般若心経にある智慧とひじょうによく似た洞察があることを見てとりました。命を「観」なくてはいけないのです。葉っぱの命ではなく、葉の中にある命、木の中にある命と言うべきです。私の命は大いなる命そのものであり、その命は私の中にも木の中にも見ることができます。やがて、葉は枝から離れると、嬉しそうにひらひらと舞いながら、地面に降りました。その葉っぱは散りながら、木の中にいる自分を見ていたのです。葉っぱはとても幸せでした。私は頭を下げました。怖れることのないこの葉から学ぶことはたくさんあると知ったからです。何ひとつとして生まれることはできず、死ぬこともできないのです。