自己ぎりの自己

内山興正老師の「進みと安らい」の第六章の最後の部分に、内山老師が学生たちと話をした時のエピソードが載っていました。

 

私は、その時の老師の答えの深さと真実に、心が震えて涙を抑えることが出来ませんでした。

 

 

本当は実際にご自身で読まれる方が良いとは思いますが、そのエピソードをシェアさせていただきます。

 

 

因みに私は5年半の間、動物愛護の精神の元にヴィーガン(完全菜食主義者)として生活しましたが、生命とは思想というアタマの領域を超えているということ、そして自分自身が「生かされている」ということに気づき、その後は動物性の食べ物も有難く頂くようになりましたが、この老師のお答えは、今の私だけでなく、過去の私にも届けてあげたいメッセージでありますし、多くの人達にも大変参考になるものであろうかと思います。



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内山老師と話をしていた学生たちの一人が、

 

「世界では飢え死にしている人や多くの戦死者がいるのに、坐禅生活をしているあなた方は逃避者ではないか、社会に出て働くことこそ大切なのではないか?」

 

という問いを老師にしたところ、

これに対し老師は、

 

「君が帰郷する時に夜汽車に乗って、その時に一人の老婆が立っていたら、君は席を譲るかどうか」

 

と学生に問いました。

 

するとその学生も仲間も皆「ゆずらない」と答え、老師はその学生たちの率直さに好感を持ちつつも、このように答えられました。

 


 

「いま地球上にはどんなことでも起っている。飢え死にする人間も、戦死する人間も。ーー そういうことを我々は観念的に知って『こうしてはいられない。どうにかしなけりゃ』という。

 

しかし実物としてのこの自分はどうか。ーー 夜汽車の坐席ひとつ、老婆のためにゆずりかねる自分じゃないか。地球上のあらゆる、あわれな人々のうえを思いやるのは勿論大切だ。しかし夜汽車の坐席ひとつゆずりかねる自分という実物をふりかえることはもっと大切なのじゃないか。

 

その点、罪深い自分の実物を少しもふりかえることなしに、ただ観念的にだけ立派すぎる、主義、思想、運動が多すぎることこそ、現代という大衆時代の本質的弱点なのじゃないか。

 

 

いまのわれわれ、まず自分がこの世に生きている、ということだけで、すでに他人を押しのけ、他人を傷つけつつ生きている罪深い自分なのだということを、まずふりかえることが大切だ。

もしこの罪を完全に犯すまいとするならば、即座に死ぬよりほかはないだろう。そしてすべてのものが死に絶えることだけが、人間の真実ということになるだろう。

 

しかしもし『生きることの真実は、生きることだ』とすれば、まずいまこうして生きているということだけで、すでに犯している罪深さを懺悔しつつ、しかもできるかぎり、目の前の人、それからあらゆる地球上の人類も、すべて生きるという方向にむかって、いまここに力をささげるよりほか仕方がないのではないか。

 

 

たしかにわれわれ社会から目をふさぎ、ただ坐禅していればいいということはない。しかしどんな領野に働くひとたちも、ーー 政治家も、思想家も、科学者、技術者も、実業家も、労働者も、すべてこの自分という実物をふりかえって懺悔しつつ、しかも尚、おのおの自分の働く領野でできるかぎり、目の前の人、そして、世界中の人々が生き生きるような方向にむかって、今ここを働くということ ーー

 

 

そういう生きる姿勢態度の根本基準として、真の『自己ぎりの自己』としての坐禅を、だれもかれもするというような時代を来らせたい。ーー それが今、私自身の坐禅している根本方向なのだ。」